鬼喰
- たまはみ -
閑話 細波にゆらめく
第一章 一
キャンプに行く、と言って志野(ゆきや)が出かけたのはある夏の日である。
ここから車で3時間くらいの近場に、いいキャンプ場があるから、と声をかけられたと言う。
そして。
その日の夜。電話が鳴った。
「え? 倒れた?」
電話口で頓狂な声を上げたのはわたしである。
家主である神主さんは町内会の慰安旅行で、一人娘の彩花(さやか)さんは夕食の片づけをしていたためである。
十五年、ここに居候を続けているわたしは、もはや気負いなくこの家の電話をとるに至っていた。
「あ、そうですか。わかりました。すぐそちらに向かいます。ええ、そのままで。はい、じゃ、すぐ。 到着は……11時くらいです。ええっと、体が冷えないようにだけ、気をつけていただければ。よろしくお願いします」
わたしの声を聞きつけたのだろう。台所から彩花(さやか)さんが、手を拭きながら出てきた。
「和(あい)さん、何かありましたの?」
おっとりとした口調で彩花さんは言う。
「ええ、志野が倒れたみたいです。たぶん、ろくでもないものを拾い食いでもしたんでしょう。
電話口から、雪白(ゆきしろ)さまの声が聞こえました。迎えに来い、ってね」
念のため。拾い食ったのは「鬼」である。
この場合「鬼」とは魂魄や霊(すだま)などの総称だ。
志野は鬼喰なのだ。
「雪白さま? 志野さんの蛇さんのことですね」
「ええ、そうです」
あの2月の大騒ぎで志野の守護者におさまった白い蛇の神。
御名は雪白、さま。
志野にそう名乗ったそうだ。
鬼喰。それは文字通り「鬼」を喰らう力を有する者。志野はそれであるが力を自分の意思で制御できない。雪白さまは志野の力の制御を助けている。
「ちょっと迎えに行ってきます。今から出ると向こうに到着するのが……11時か。すぐに戻ってくるとしても、帰ってくるのは3時ごろですね。先に休んでいてください」
神主さんへの連絡は、戻ってからでよいでしょう、と彩花さんに言い、わたしは着替えのため部屋に戻った。今日は一日、お社の手入れをしていたため、祝(はふり)の略装を着たままだったのだ。袴は着慣れれば、スウェットよりラクで着心地がいい。
車の鍵を持ち。
玄関でふと振返る。
「ひとりで大丈夫ですか?」
問いかけたわたしに、彩花さんは少しだけ目を見開く。そしてくすくすと笑い出した。
「小さな子供じゃありません。大丈夫です。いってらっしゃいませ」
山は冷えますから、と差し出されたのは薄手のジャケットとハーフケット。水筒には熱いお茶。夜食にと手渡されたのはおにぎりである。
わたしが着替えて戻るわずかの間に、手際よく整えてくれたようだ。
まったくお嬢さんはすばらしい。
「ありがとうございます。それじゃ、行ってきます。ちゃんと戸締りしてくださいね」
「和さんもお気をつけて」
隣の若夫婦と同じ会話をしていることにふと気付き、首をかしげた。まあ、いいか。
なんだか妙な按配だな、と思いつつも、わたしは車を発進させる。
門まで見送りに出てきた彩花さんにバックミラー越しに手を振った。
志野と出会ってほぼ半年。片付けた依頼は17件。月平均3件の割合で仕事が舞い込むのは、多いのか、少ないのか。
わたしとしては、月に三度も、と言いたいところだ。
あれからなし崩しに物の怪退治の仕事を続けているわたしと志野は……いや、志野とわたし、だろうか。
おなじ屋根の下で寝起きし同じ釜の飯を食う間柄だが、いつも一緒にいるわけではない。
わたしには祝としての仕事があるし、志野には大学がある。ここ最近は仕事でもない限り一緒に行動することは稀だった。
それもこれも雪白さまのおかげである。
雪白さまが志野の守護についてくれたおかげで、「無駄な拾い食いを防止するために雑霊の存在を志野に教える」というお役目から、
わたしは解放されたのだ。
そう。できるならあのえぐい光景を見たくない、と思っていたわたしにとっても、雪白さまは大恩人。
神さまだけど。
その雪白さまのご命令とあれば、聞かないというわけにもゆかない。
志野=鬼喰、という厄除け札なしに外出をするのは少々心もとないが、向こうに着けば合流できる。
そんな気楽な気分で、わたしは車を運転していた。
高速道路――件の高速道路の世話になることがあるとは――を走っておよそ1時間ばかりしたころから、嫌な気配を感じ始めた。
これはまさしく、あれの気配だ。あれ。志野の食料。つまり鬼。
食料、ではない、か。
志野は別段あれらを糧に生きているのではない。鬼など喰わなくても人として充分に生きてゆける。
喰ってしまうのは彼の意思じゃない。
しかし。
彼がいないときに、鬼に会いたくないのは真実だ。
いや、叶うなら、志野と一緒のときでさえ、会いたくない。それが本音だ。
「やだなぁ。遭遇したくないなぁ」
つぶやいたわたしは助手席を何気なく見て、泣きそうになった。
「……って言ってるのに」
助手席には女が座っていた。ショートカットのきれいな女だ。生きていたころは。
右のおでこがぱっくり割れて、血が滴っている。
ように、演出している。
そう、霊たちの姿はさまざまでよりどりみどりで、それなのに、死に際の姿をわざわざ選んで現れるなんて。
「悪趣味な」
つぶやいた瞬間、首を後ろからなでられて、ぎょっとする。
ルームミラーは後部座席にも3人が座っていることを教えてくれる。
「勘弁してくれよ」
にたり、と笑う4人の女に往生して、いや、縁起でもない。困り果てて、それでも無視を決め込み、運転に集中する。が、ささやくような小さな笑い声と、体にふれる冷たい手の感触に怖気が走る。
わたしは何も見えてない、感じてない、聞こえてない……。
呪文のようにくり返す。
助手席の女が微笑みながらわたしの頬を撫でる。後部シートの女が、首に手を回した。
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