鬼喰
- たまはみ -
閑話 細波にゆらめく
第二章 四
志野はそれを知らなかった。
この丘に来るまで、気付かなかったから。
彼女には待っている人がいるのだと、そう、信じていたから。
……傷ついているだろう。
彼は、細波が何者か知らなかったけれど。
憐れに思い、喰われる危険性も承知の上で、身の内に受け入れた。
それでも。
ひとたび違えられた約束が、果たされることなど。
ないのだ。
その日、日もすっかり上ったころ、わたしと志野と子稲荷さんは帰ってきた。
疲れて眠りこけている志野を、できるなら起こさずにすませたかったけれど、
さすがにこの歳の青年を抱えて運べるほどにわたしはたくましくない。
仕方なく起こす。
「志野、着いたよ。起きろ」
わたしが志野を起こしている間に、子稲荷さんは中へと駆け込んで行った。
白狐さまにご報告、か、はたまた無断外泊の謝罪か。
はたして許してもらえるのだろうか。
子稲荷さんには、何度も助けてもらった手前、わたしからもご挨拶するのがスジと言うものだ。
身を清めたら、まず、白狐さまに謝罪とお礼をしなくては。
「志野。起きろ、おい」
軽く頬を叩く。
夢でも見ているのだろうか。
涙のあとで強張る頬を、また一筋涙が伝った。
細波はまだ彼の中にいるのだろうか。
残像だけになって。
「どうするかなぁ、これは」
困り果てたわたしは、少々乱暴な方法をとることにした。
「熱いっ」
「ああ、ごめんごめん。こぼしちゃったよ、お茶。あーあ。もったいない」
飛び起きた志野が額にかかった温い(風呂の温度よりは、ちょっと高いかもしれないが)お茶を勢いよくふり払う。
「あんた、何やってんだ!! こんなところでお茶なんて飲むな!!」
「飲んでないよ。なかなか起きないから、先に荷物だけでも下ろそうと思ったんだ」
「それでどうして蓋が開く!!」
「開いちゃったんだからしょうがないだろ」
「しょうがないだと!!」
「まあまあ、これで拭いて」
ハーフケットを顔に押し付ける。
ぶふっ、と息を詰まらせる志野。
「ばかやろう! かかったのは」
額だ、と言おうとして、頬がぬれていることにもきづいたのだろう。ことばが途切れた。
それには構わず、わたしは玄関へと向かった。
「和さん、志野さん」
走り出てきた彩花さんがわたしの手元から荷物を半分受け取った。ボロボロになってしまったシャツに滲む血を見て、彩花さんは息をのんだ。
「お怪我、なさったんですか」
「たいしたことはありません。かすり傷ですよ。それよりシャツがこんなになってしまいました。せっかく見立てていただいたのに、すみません」
「また、見立てます」
にこりと笑った彩花さんを見て、ああ、かえってきたんだなあ、と実感する。
「……遅くなりました。ただいま戻りました」
「はい、お帰りなさいませ。志野さんのお加減、大丈夫そうですね。お二人ともご無事でよかった」
「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「お風呂になさいます? それともお食事?」
「そうですね。お風呂、いいですか? 実はさっきおにぎりを食べたばかりなので……おい、志野。何やってんだ。早くおいで」
「わかってる!! ほっとけ!!!!」
その声が泣いていることに気付いたことは、内緒にしておく。
・・・・・・優しい人。
細波の声が、聞こえたような気がした。
波に揺らめく月影も。
青い霧にけぶる水面も。
丘も、祠も、約束も。
細波……。
すべて忘れて、ゆっくりお休み。
わたしが、ずっと覚えているから……。
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