鬼喰
- たまはみ -

閑話 細波にゆらめく

第二章 三

 吐息とともにつむぎだされたかすれた声。
 これまでに喰ってきた中でも、格段に細波は強く大きいのだろう。
 ぶつけられた思いは本当に強かった。その苦しみに共鳴しそうなほどに。外側からぶつけられて、あれほどに痛かったのだから、細波を内に入れた志野の苦痛は、いかほどのものだろう。
 よろめいた志野を支えるために駆け寄った。日頃であれば志野にはね除けられるはずのわたしの手の中に、その体が力なく倒れこんで来る。
「大丈夫か。志野」
「さあな。気を緩めると、俺が喰われそうだ……向こうにその気はないってのに……っ」
「冗談はやめてくれ!」
「冗談じゃないから、言ってるんだ。行こう……長くは、持たない。喰われる前に……早く」
 どこへ、と聞く必要はなかった。
 彼の内の細波が、そう望んでいるからだ。

 遠く、夜明けの湖は、青い霧に包まれている。
 志野の(中の細波の)案内で車を走らせたわたしは、何もない丘の上に立っている。
 志野も並んで立っていた。
「満足か、さざなみ」
 志野がささやく。
「誰もいやしない。こんなところに来て、おまえはそれでよかったのか。こんなことのために」
 半ば同化しかけているのだろう。
「こんな、ことの……ために」
 おまえ、来世さえも賭けたのか。
 志野は泣いていた。
 わたしはそっとその場を離れた。




 わかっていたの。
 あの人は、待ってくれなかった。
 待ってはくれなかった。
 行ってしまったの。
 わたしではない人の手をとって。
 すまない、と、短いことばだけを残して。
 約束をしたのに。
 約束をしたのに。
 わたしのおつとめが、巫女としての務めが終わるまで。
 待ってはくれなかった。
 たった、数年だったのに。
 この丘で見送るわたしを。
 声さえ出せずに立ちすくむわたしを残して。
 振返りもしないで。
 二人で行ってしまった。
 走りよる彼女を抱いて。
 行ってしまった。

 遠ざかるその背中。

 ためらいもなく……


 だから、わたし。
 仕返しをしたくて。
 自分から、贄になったの。


 幸せな二人の未来(ゆくさき)に、毒を。


 伝え聞いたあの人が、ずっと後悔するように。
 素直に彼女を愛せないように。
 水面を見るたびにわたしを思い出すように。
 その思い出が苦痛に満ちているように。

 でも。
 どうしても。

 わたし



 ……謝りたかったの。



 だけど
 もう……
 届かないのね
 あのひとには……




 わかっていたわ。
 わたし、わかってた。
 わかってた……それでも……
 ありがとう。
 鬼喰。
 もう、いいの。
 わたしを残そうと無理をしないで。
 あなたが、消えてしまうわ。
 消えるのは、わたし・・・・・・。
 わたしは消える。
 消えて……。

 ありがとう
 ……優しい人。
 さようなら、わたしの……愛しい湖、大切な、思い出の場所。


 それきり、志野の中の細波の気配は、急速に弱まり、消えてしまった。

 立ち尽くす志野を、ちょっと離れた場所から眺めながら。
 志野が納得するまで、わたしは出発をあきらめた。
 見つめているのは、細波から去る二人の残像なのだろうか。
 一点をじっと見つめ、志野は微動だにしない。


 1時間ほどして、納得したのだろう。志野がわたしのところまで、ふらつきながら歩いてきた。
 たった半日で、雑魚を目いっぱいと、かなりの大物を喰んだのだ。無理もない。
 それから二人で、彩花さんが持たせてくれたおにぎりを食べ、お茶を飲み。

 終始無言で。
 わたしは知っていた。
 なぜ、約束が果たされなかったのか。
 なぜ、巫女だった細波が、贄として捧げられたのか。
 なぜ、彼女は自ら贄として名乗り出たのか。
 そして、あの祠が何のために作られたものだったのか。
 わざわざ別の祠を建ててまで、水神に嫁いだ彼女を、なぜ人々は祭ったのか。
 それは、ひとつの恋に傷つき、生きることさえできなくなった彼女を悼むため。
 人の世での幸せをあきらめた彼女のために、彼女と水神との盛大な祝言があげられたこと。
 その祭りは水神の加護を求めるためのものであると同時に、憐れな細波を慰めるためのものであったこと。
 祭られなくなった細波が、体を手に入れるために、幾多の人々を、結果として死に追いやったことも。
 細波が自らを取り戻したあのとき、わたしには全て見えてしまった。
 だから。

 還してしまいたかったのだ。
 何もかも忘れて、新しい命として、生まれることができるなら、と。

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