鬼喰
- たまはみ -
第一話 邂逅
第二章 二
「え。……それは」
上手く話す自信がない。なぜならそれはわたしもはじめて見るものだったから。
「実は志野君のお母さんに頼まれましてね。彼のまわりで不可解な出来事が起こるそうなんです。あなたが見たものに関係があるかもしれない」
「そのぅ、関係は……ええっと、その道のプロの方にご相談は?」
「した」
不機嫌そうな少年、志野くんの声に、わたしはおそるおそるそちらを見た。顔も見ずに話ができるほどわたしは無礼ではない。
いっそそれくらい不躾な態度がとれる人間だったら、と泣きたい思いだった。
幸いアレはもういなかった。いないということは、と考え始めて、わたしは無理やり思考を打ち切る。嫌だ、そんなの。気持ち悪すぎる。
「あ、されたんですか」
「十四軒、廻った」
「それで、……何て?」
「わかったら、ここへは来ていない」
「はは。そうですね……」
「まあまあ、二人ともとにかく落ち付いて話をしましょう」
十以上も歳の離れた子供に怯えながら話をするわたしの様子を見ていた神主さんが助け舟を出してくれた。
「和さんはそんなに怯えない。そんな態度で接せられたら、誰でも気分は良くないですよ。志野君はそう刺々しい態度をとらない。いいですね」
「はあ」
「……」
「それで、和さん、何をご覧になったんですか」
重い口を開いたわたしは、見たままを語った。信じてもらえないかもしれない、と思いながら。わたしも、あれが現実だと信じたくなかった。
志野くんが、看板に歩み寄る。そこにはあまり人相のよくない男がいた。男は影なしだった。一目で生きている人間に害意を持つ者だとわかった。それなのにわたしが志野くんを止めなかったのには理由がある。彼らは彼らの存在を感知しないものに対して何かをなすことはできないからだ。平然と看板に近づく志野くんにはこれっぽちの霊感もないように感じられた。ほんの少しでもそれを感じるものなら、近づくことをためらう空気をそれは発していたからだ。なにも感じないということは、かえって安全だった。
こう考えてもらえるとわかりやすいかもしれない。
馬の耳に念仏。
徹底した無視、意識的にではないにせよ、認識しない者にとって彼らは存在しない。存在しないものが悪さを働くことはできない。
同様に善意の忠告も聞こえないが。
そして志野くんは看板にさらに近づく。看板との距離があと三歩のところでそれは起こった。
目付きの悪い男が、突如志野くんに覆い被さったかのように、初めは見えた。
まずい、と思い身構えたが、この時点ではまだ平静を装うことが可能だった。
が。次の一瞬には。
男は志野くんに喰われていた。
喰う、としか表現の仕様がない光景だった。ずるり、ずるりと男は啜られるように、少年の体に引きずり込まれてゆく。初めは右腕、そして右足、左足、腰、胸。
男は志野くんの体内にゆっくりと、しかし抗うことを許さぬように喰われていった。
苦痛を伴うのだろうか。それとも死した身にもそれは恐怖だったのだろうか。男の断末魔の叫びがわたしの耳を打った。
男はもがき、わたしに助けを求めながら、凄まじい形相で左手を伸ばした。伸びた腕は生きている人間が最大限伸ばす三倍は長かった。
飛び離れようとするわたしを志野くんの手が捉える。逃げようのなくなったわたしに、男の手が迫る。すでに男は左腕のみを残して志野くんに喰われていた。志野くんの肩から生えている男の手がわたしの首に触れた。悲鳴さえ上げそこなったわたしは失神した。
「と、いうことで……」
話し終えたわたしを志野くんがじっと見つめる。表情はない。途方にくれているようにも、無関心にも見える。彼の真っ直ぐな視線に晒されていることに苦痛を感じ、わたしは視線を畳に落とした。
「それは、ジキレイかもしれませんねえ」
話を聞き終えた神主さんのことばに志野くんとわたしは一瞬互いを見つめあい、同時に視線を転じて神主さんを見た。
神主さんはお茶をすすった。お茶はわたしが部屋に入る以前から出されていたものだ。すっかり冷たくなっている。普段の神主さんであれば、そのようなものに口をつけない。のんびりとした口調だが、それなりに動揺しているらしい。
「ジキレイ、ですか?」
わたしの問いかけに神主さんはゆっくりと頷いた。
「霊を食うと書いて、食霊。わたしの祖母は『たまはみ』と言っていましたがね」
たまはみ、はこう書きます、と手元のメモに記す。
鬼喰、とあった。
「魂魄や霊、物の怪を総括して鬼と呼びます。それら鬼を喰うので、鬼喰」
非常にめずらしい力ですねえ、ともう一度神主さんはお茶をすすった。
「彩花さん、お茶をいただけませんか」
ようやくお茶の冷たさに気付いたように神主さんは彩花さんに言う。足音がして、彩花さんの影が障子に映った。凛とした、それでいて優しい声で失礼します、と挨拶し彼女は障子をあけた。
「お父さん、お茶もよろしいですけれど、そろそろお食事になさいませんか。もう七時です」
「おや、もうそんな時間ですか。それじゃあ、ひとまず食事にしましょうか」
神主さんはゆっくりと立ち上がる。いつも感心するのは、何時間正座していようと彼の足はしびれを知らないことだ。
わたしは二時間が限度で、三時間座っていると立てない。
今なら普通に立ち上がることができると思いつつ、三時間以上正座していた志野くんを何気なく見ると、立ち上がろうとした彼が後ろにころりんと転がるところだった。
「あの、志野くん」
食堂に向かう途中、恐る恐る声をかけると彼はふり返った。
「お世話をかけたようで。ありがとう。運んでくれて」
「別に」
ふい、と彼は顔をそむける。
困惑のまま立ち止まり、彼の背中を見送ったわたしに、彩さんが囁いた。
「和さん、志野さんね、倒れている和さんの傍で、泣きそうな顔でしゃがみこんでいらしたの。私が和さんの知り合いだと知って、本当に安心したご様子でしたわ」
「ふうん。そうですか」
「そうですの」
彩花さんがくすくすと笑った。その声が志野くんに聞こえたのだろう。神主さんに続いて縁を歩いている彼が、わたしたちをちらりと振り返った。わたしは何か言うかと思ったのだが、彼は例によって無関心な素振りで視線を戻した。
倒れたわたしなど救急車を呼ぶなりして放っておいて、神主さんの家を探すこともできただろうにと考えると、誰かが通りかかるまでじっと付添っていたという子供っぽさが、わたしのなかの彼の印象を塗り替えた。
出会いが出会いだっただけに、恐怖心は拭いようがなかったが、少なくとも嫌悪感は克服できそうだった。
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