鬼喰
- たまはみ -

第一話 邂逅

第五章 二

 わたしは再度、四方を見回した。
 柱の向こうに見えるのはどの方向も「庭」である。
 やけに古めかしい石灯籠が、目に入った。
 それはここへ入る前に見たあのレンガ壁や白い門に抗うかのように苔むしている。
 息を整えながら、視線だけを動かしていくつもの「庭」を見る。
 どれもが美しい庭園だった。こんな状況だと言うのに、その見事さは、わたしの胸を打った。
 庭木の花が、しかし狂ったように咲き乱れていた。
 じっとしていることに耐えかねたのか、静かに立ち上がった志野が、周囲に目を配りつつわたしの元へとやってきた。
「行くぞ」
 走り出そうとする志野を止め(体力を消耗するだけだ)、わたしは目を閉じた。
 心眼などと、気取ったわけではない。
 見ても見えないのでは、空けているだけ無駄だと思ったのだ。
 ため息がこぼれた。

 よどんだ空気が動いたのは、一瞬だった。

 やわらかな風が、右から左へ、流れてゆく。
 風に混じる樹木の残り香。

 わたしが目を開けたのと、頭上から蛇の吐く生温かい息が落ちてきたのはほぼ同時だった。
 気配を察した志野が、わたしとは逆の方向に重心を移す。
 左右に分かれて避けようとする志野の手首を、わたしは無理やり自分側に引っ張った。
「こっちだっ」
 引っ張られた志野は前傾姿勢になったもの、三歩目には平衡を取り戻す。
 そして五歩目にはわたしの前を走っていたのだから、「若さって素晴らしい」
 わたしは蛇にジャケットの裾を噛まれながらも、かろうじて五体満足で脱出に成功した。

 建てかけのまま朽ちようとしている母屋から庭へと抜け出る。
 そこは家屋の中から見たような、手入れの行き届いた庭園ではなかった。
 石灯籠はあったが、砕かれた残骸でしかない。それは
「墓か?」
 という志野の発言からもわかるように、石で構築された何か、ということしかわからないほどに壊れていた。
 わたしにその残骸が石灯籠だとわかったのは、さきほど遠目でもそれを見ていたからに過ぎない。
「石灯籠だよ」
 では、先ほど見たあれはこの庭の過去か。
 思いつつ眺めれば、たしかに面影があった。

 不思議なことに、この裏庭には悪意も敵意も見当たらない。それどころか、こんなにも荒れ果てているのに、なぜか優しい気が満ちていた。
 この気には覚えがある。懐かしい故郷の匂い。
(……い)
 小さな声がわたしの耳を打つ。もしかすると声ではなかったのかもしれない。
「何か言ったかい」
 志野を振り返る。彼には聞こえなかったらしい。首を左右に振った。
(……てください)
 今度はもうすこしはっきりと聞こえる。
 声の主を探そうとわたしは辺りを見回した。
 荒れた庭の中で、唯一つ無事だった桜の木で目がとまった。
(あれを封じてください)
 木の声なのか。おそるおそる歩み寄り、木肌に触れる。がさがさとした桜の木肌の感触が手に伝わる。
「あなたですか。いまの声は」
 わたしの問いかけに、桜がことばをかえした。
(おひさしぶりですね。和)
「わたしを知っている?」
(わたしたちは皆もとはひとつ。挿し木によって増やされたわたしたちは同じ。染井吉野とよばれるわたしたちはすべて一人)
 あなたのお家にも、わたしはいました、と桜は言った。まなうらに横に枝を広げたあの桜が見えた。
(あれを封じてください)
「あれ、とはなんですか」
(家の中で蟠っているモノ)
「あの、蛇ですか」
(あれはもともとは守り神。わたしがこの地を守るように、ここにあった古い家と家人をずっとずっと守っていた、わたしの友)
「友……」
(あれは変わってしまった。守るものを奪われ、位を奪われ、変わってしまった。あれはわたしが封じた穴を開こうとしている。止めなければ)
 桜の嘆きが手のひらを通してわたしに流れ込んでくる。
 いつのことなのだろうか。
 春。桜を愛でる娘を花の影からそっと見守る白蛇。
 夏。木陰でまどろむ青年を愛しげに見つめる白蛇。
 秋。落ち葉焚きをする老夫婦と孫を……。
 冬。白く雪化粧をした桜の根元で蛇は暖かな夢にまどろんでいた。
 幾年月、繰り返された季節。長い日々を穏やかに安らかに過ごしてきた彼らを、突如襲ったできごと。
 ある日軍服に身を包み出かけていった父は帰らなかった。兄もその下の兄も、叔父も、従兄弟も帰らなかった。
 そこで暮らしていた人々は離散した。泣きながら、母親に手を引かれ何度も家を振り返りながら去ってゆく少女を蛇は見送った。
 何事があったのか彼にはわからなかった。
 何も知らされることなく、白蛇の守ってきた家は取り壊された。
 何も知らされることなく、新たな家屋がこの場所に建てられた。
 怒りと悲しみと、なによりも嘆き。
(封じてください)
 桜の声は志野には聞き取れなかった。
 それでも彼は、察したのだろう。わたしに言った。
「ようするに、あれが原因なんだな?」
 あれを片付ければいいんだろう。
 自棄になったように彼は袖をまくる。
(鬼喰、彼は鬼喰? なんと強い……)
 桜がわたしに問う。頷いたわたしに桜は告げた。
(彼の中で、あれはもういちど自分を取り戻す。若い鬼喰よ、どうかあれを)

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