鬼喰
- たまはみ -

閑話 細波にゆらめく

第一章 四

 掴まれた足がずるっっ谷側へと引きずられる。
 とっさにしゃがみこみ、均衡を保つ。同時に地面に爪を立て、ひっぱる力に抵抗した。
 しかし、崖へとわたしを追い落とすように、二体の「鬼」は近づいてくる。
(ゲームオーバー♪)
 やけに楽しそうにそういった彼女は、地面をつかむわたしの指をそっと開かせる。
 もうだめだ、今度こそおしまいだ。

 が。
(ぎゃっ)
 悲鳴を上げてわたしの手を掴んでいた一体が消えうせた。
 白い小さな光が、残る一体にまとわりつく。
 その隙に、足首を掴む手を蹴り飛ばした。
 見たか、おまえがわたしを掴めるということは、逆を言えば、わたしがおまえを蹴ることができるということだ。
 えいっ、えいっ、えいっ。こいつめ、こいつめ、こいつめっ。
 手を蹴り飛ばし、注連縄で討ち祓い、撃退する。
 それでも次から次へと執拗にのばされる「手」
 もぐらたたきのように祓い続け、それでも徐々に崖の際に引きずられてゆく。
「だ、だめだっ」
 懸命に対処するのだがどうしようもない。
 あ、これは本当にだめかもしれないなぁ。
 半ばあきらめかけたとき。

 白い光が炸裂した。

 手がいっせいに、わたしの足を離す。
 はじけた光にしゅうしゅうと音を立てながら、それらは消滅してゆく。目の端でそれらを見ながら、自由になった足を駆使して、とっさに車の陰へと逃げ込み。
 何事かと身を縮めて様子を窺った目の前に。
「……子稲荷さん? ついてきちゃったのかい」
 白い毛を逆立てて、「鬼」を激しく威嚇する子稲荷さんがいた。
 常の愛らしい姿とは異なりその形相は、小さいながらに稲荷神の激しい一面を思わせる。
 金色の瞳に宿るのは怒り、目元の赤い隈取は炎。真白の毛並みは薄く輝いていた。
 子稲荷さんに守られたわたしに、恨めしげなまなざしを投げかけと、鬼たちはあっけなく退散する。見習いとはいえ、神様である子稲荷さんに、人ごときの霊(すだま)が敵うはずがないのだろう。

 鬼たちを追い払った子稲荷さんは、満足げにしっぽを立てると、宙で一回転し、わたしの懐に飛び込んできた。誉めて、誉めて、と言わんばかりのその仕種に、わたしは頭をそっとなでる。
「ありがとう。でも、ついてきちゃって大丈夫なのかい?」
 神域を離れた神は力を失う、と聞いたことがある。心配になって訊ねてみると、子稲荷さんはぶんぶん、と左右に首を振った。
「ええっと、それは心配ないってことかい?」
 今度は縦にぶんぶん。
「そうか、じゃあ、ちょっと付き合ってもらってもいいかな」
 縦にぶんぶん。
「助かるよ。ありがとう」
 子稲荷さんを抱っこして、わたしは立ち上がった。体についた砂と土を払い落とす。
 壊れた祠を、簡単に直し、蹴り飛ばしたご神体をそっと戻した。
「ありがとうございました」
 祠の神様に一礼する。
 湖を一望するこの祠を祭らなくなったのは何故だろう。
 ここを守る存在の力が衰えたこと。それが、あの女の子達や「手」たちを死に招いたのではなかろうか。
 祈りを捧げ、感謝をこめて、彩花さんが持たせてくれたおにぎりの一つをお供えし、割れた杯に少しだけお茶を注いだ。
 青みを帯びた丸い石が、月光にふわりと光る。
 漣(さざなみ)に映る下弦の月は、細くたなびいて、流れていた。

 おかげで窮地を脱することができたわたしは、助手席の子稲荷さんのおかげもあって、 その後は雑霊のちょっかいを受けずに、そのキャンプ場にたどり着くことができたのだった。
 まだ若く、少々短気な子稲荷さんが、ことごとく追い払ってしまったのである。

 案内されたコテージでわたしは、志野の死人のような顔色に仰天した。
 意識は戻ったようだが、体調も気分も極めて悪いようだった。無言でただ堪えている。
 大丈夫か、と声をかけ、肩に手を置いたわたしは、その冷たさに、再度驚いた。小刻みに震えているのは寒さからか。
 いったいどのくらいの拾い喰いをしたのか鬼の残滓を透かし見ると、十や二十ではない。数え切れないほどの異なった気配を感じる。
 あの蛇神さま、雪白(ゆきしろ)さまのおかげで力は増大したようだが、その力に志野自身が追いついていないのは確かだ。
 「鬼」を見ることが出来ない志野は、無益な ―― それは捕食者被捕食者双方共に ―― 拾い喰いを避けるため、 不穏な噂のある場所には出向かない。大学への通学も、わざわざ迂回路を選ぶほどにそれは徹底している。もちろんそのルートの選定にはわたしも協力している。わたしは見る力にかけてだけは、自負がある。いや、見えなくなることが可能なら、こんな自負は捨てても良いが。
 それはともかく、その志野がどうしてこんなに拾い喰いをしてしまったのか。
 志野の気分は悪そうだが、彼自身を逆に喰い尽くすほどの力ある鬼の残滓は感じなかった。しばらくすれば回復するだろう。
 安堵したわたしはそれとなく、探ってみた。
「志野はこういうところ好きじゃなかっただろう? よく来る気になったね。ここ、地元では有名な心霊スポットだって?」
 そんな噂は聞いたこともなかったが、確信があった。
 なぜなら、ここへ来る途中、数え切れない雑霊に出会ったからだ。百八十と少しまでは数えていたのだが、あまりの多さにうんざりしてやめてしまったのだ。
 子稲荷さんがいてくれてよかった。で、なければわたしは今頃どこかで立ち往生していたに違いない。比喩かもしれないし、比喩でなく、かもしれない。
 それほどに多かったのだ。
 脆弱な雑霊だけとはいえこれだけいれば、何らかの噂はたっているだろう。
 そう思い、鎌をかけた。
 案の定、ばつの悪そうな友人たちは、互いの顔を無言で見つめあい、そして白状した。
 この湖にあやしげな噂があると知ったら志野はきっと来ないだろうから、全員に緘口令を敷いていた、と。なんと肝試しキャンプだったと言うのだ。
 夜、湖を一周して帰ってくる。それがメインイベントだったらしい。
 そして、そうと知らされず一周した志野は、鬼を過食して倒れた。
「二村が、そんなに怖がりだとは思わなかった」
 思わないだろう。志野は怖がっているのではなくて、嫌がっているのだから。
 ブランケットに包まったまま、志野は無言でその友人を見る。にらみつける気力もないのか、物憂げな視線は、しかし常の強気な志野を知る者にはかえって恐ろしい。
「すまん!」
「ごめん!」
「悪かった!!」
 あやまる友人たちに志野はあきらめたようにため息をついた。了承のかわりに。
「少し休ませたら連れてかえるから。手間をかけたね。キャンプの日程が終わったら、顔を見にきてやってくれるかい? だから言ったろ? 風邪気味なのに無理をするから」
「……うるさい」
 彼らは志野が鬼喰だということを知らないし、そもそも鬼喰という存在も知らない。知らないものを責めることは出来ない。それに志野も知られたくはないだろう。
 風邪気味だった、というわたしの嘘をなんなく信じた友人たちは、合点合点し、志野もその誤解に同調するかのように、軽く咳き込んで見せた。

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