鬼喰
- たまはみ -

閑話 細波にゆらめく

第一章 四

 とりあえず保護者であるわたしが来たことで安心したのか、彼らはそれぞれのコテージに戻っていった。志野と同室の予定だった二人は、それぞれ別のコテージへと移動した。
「二村も、仰木さんもお疲れでしょう。俺らは別んとこで寝ますわ。もし今晩中にお帰りになるなら、カギは隣の1号コテージのポストにでも入れておいてください」
「ありがとう。申し訳ないね」
「こっちこそ、すみませんでした」
「二村、帰ったら、土産持ってくからさ。機嫌直しといてくれよ」
 頭を下げる二人を送り出し、コテージの扉を閉める。と、
「それがよかろう」
 志野がことばを発した。志野が? いや、雪白さまが、だ。深くよく響くお声は神々しい。
 雪白さまは、志野の体を使いことばを発していた。その割に、お声が違うのは何故だ。
 考えて思いあたった。
 おそらくわたしの耳は実際の音声ではなく、雪白さま本体の声を感知しているのだ。
「雪白さま」
 畏まるわたしに、雪白さまはよい、と一言許しを与えた。
 そそくさと、わたしは姿勢を戻し、無礼にならない程度に寛いだ。
「たいしたものよな。守護者に働きかけるとは」
 見抜かれていたようだ。苦笑しつつ、わたしは頭を下げた。
 そう、わたしは声に出さず、同室の二人をそれぞれに守護する存在に語りかけたのである。
「今の志野はその力を御することができません。ここからすぐに離れてください」
 と。
 守護者たちは志野が鬼喰であることに気付いていた。主との結びつきが堅かったのか、喰われないように気を張っていたのか不明だが、近くあればあるほど、いざ志野の力が発動したときには喰われてしまう危険性が高い。わたしのことばに、彼らはすすんでそれぞれの主に退室を促してくれた。二人の青年は自分の意思だと錯覚したまま、守護者と共にここを去ったのである。
 こんなことができるとは、つい最近まで気付かなかったのだが。

 一種のマインドコントロールだ。

「おそれいります。ところで、雪白さま。志野はどうしてます?」
 あまりそのことに触れられたくなくて、わたしは問いかけた。わたしのその態度にお怒りになることもなく、雪白さまはわずかに笑まれた。
「大事無い。過ぎた。それだけだ。じきに治まる」
 食あたりの説明のような雪白さまの口調に、わたしはつい笑ってしまう。だが次のことばを聞いた瞬間、その笑顔は貼り付けたようなものになってしまった。
「が、間に合わぬやも知れぬ。子狐、しばし、頼むぞ」
 子稲荷さんがくるり、と宙返りする。ぴんとはったしっぽとひげ、きりりと立った耳が、やる気満々、と言っている。
 雪白さまは、志野であれば決して浮かべることのない優しげな微笑で子稲荷さんの頭をそっと撫でた。
「あの、雪白さま、間に合わぬ、とは?」
「来る。これを狙って」
 これ、と言いつつ雪白さまが指したのは、ご自分の胸、つまり「志野」だった。

「雑魚を食わせるだけ食わせ、食えなくなったところでこれを手に入れる。……人の分際で、さかしらなやつめ。おまけに微かに水神(みながみ)の気を帯びている。もう500年も祭られれば、まこと水神となったやもしれぬに、何を思うて人に固執しておるやら。たしかにこの体は稀少ではあるがな。吾を受け入れてなお、鬼を喰むことができる。八雲の血筋にも、これほどのものはおらなんだ。……したが、人ごときの霊(すだま)に喰わせてやるわけにはゆかぬ」
 雪白さまはくっ、と口の端を引き上げて笑った。小さな声で短く何事かを唱える。右手の人差し指と中指ですっと空を切り、そこから一振りの枝を取り出した。
「祝(はふり)よ」
「はい」
 枝を差し出しながら、畏まるわたしに雪白さまは言った。
「これを使え」
 拝領した枝が桜であることにわたしは気がついた。
「これ、は」
 長さは40cmほど。太さはわたしの親指より少し細い程度だ。夜露の光る深緑の葉。
「幣束のかわりなら、その程度でよかろう」
「まさか」
 志野の意識が戻るまで、一人で食いとめろ、ということではないでしょうね。
 そう問うことは永遠にできなかった。なぜなら。
「来る」
 短く、鋭く発せられた雪白さまのことばの余韻が消えやらぬうちに。

 それが目の前に現れたからである。

 空間を引き裂いてコテージに現れた「それ」から、わたしと雪白さまと子稲荷さんは、即座に最も離れた場所、部屋の対角線上の位置へと退避した。
 雪白さま……つまり志野の体を背に庇う格好で、わたしは「それ」と対峙する。
 子稲荷さんがわたしの左肩の上空で、毛を逆立てて、「それ」を威嚇していた。
「祝、すまぬがわたしはこれの手伝いをせねばならぬ。内に取り込んだ鬼どもを片付けるまでの間、そなたにまかすぞ」
 そのまま雪白さまは志野の内へ引っ込んでしまわれた。
 傍目にはのんきに眠っているような志野を見て、悲鳴を上げたい気分だった。

 まかされましても。
 雪白さま。
 わたしに何ができるというのです!!?

 それは一応、人の姿をしていた。いや、人であった姿を留めていた、と言うべきか。
 血にまみれたその姿は、吐き気を催すほどだった。
 千切れかけた腕。腱を引きずる足。引き裂かれた腹からあふれる臓器。垂れ流しの脳しょう。ぶら下がった目玉。ちぎれた唇。つぶれた額。転落死、だ。
「君は……誰だ」
 応えがあるとは思っていなかった。形式的にそう訊ねただけで。
 ただ、力ずくの戦いにだけはわたしはしたくなかった。そんなことになったら、勝てる見込みは全くない。こうしてただ対峙しているだけでも、それの持つ力は、息苦しいほどの圧力をともなってわたしに迫ってくるのだ。
 だから、まず、説くことを試みた。
 そのためには、まず名を得なければならない。
 呼びかける名さえわかれば、話すことができる。微弱であっても、わたしのことばにも力が宿る。
「君は何者だ」
(そこを退け。おまえに用はない。この不自由な身を捨てて、新しい体を手に入れる。それだけだ)
 咽喉を引き裂かれているのか、ひどく不明瞭な声だった。
「名は?」
(名は……ない)
「忘れたのか?」
(退け。新しいわたしの体。……手に入れる)
「君は、もう死んでいるんだ。君の体は失われた。そんな姿にとらわれている必要は、もうないんだ。本当の姿を見せてくれないか」
(本当の……姿)
「そうだ。魂は肉体と違い、損なわれたりしない。君は体への執着が強すぎて、その姿を自分でとっている。思い出せ。自分が何者なのか。もう一度聞くよ、君は誰だ?」
(わたし……わたしは……誰だ……?)
「落ち着いて。ゆっくりと思い出せばいい。わたしは待ってるよ。君が思い出すまで」
(待つ……あれも、同じことを、言っていた。あれは、誰だ? わたし……わたしは)
 
 それは千切れかけた両手で、顔を覆った。


 待っているよ。待っているから。

 どこで。
 何のために。
 いつまで。

 はじめて出会った場所で。
 君と共に生きるために。
 君が来てくれるまで。
 ずっと。


 約束。
 そう言って、あなたは微笑んだ。
 それなのに。

 それなのに。
 わたしは、行けなかったの。




 だって。
 あの崖から、落とされてしまったから。
 この湖の神を鎮めるために。
 贄になってしまったの。

 転がりながら、落ちながら。
 痛かった。

 怖かった。
 最後に見えたのは、波間に滲む青い月。
 揺らめいて消える星の瞬き。




 あの人の面影。


わたしを抱きとめる、水。

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