鬼喰
- たまはみ -

閑話 細波にゆらめく

第二章 一

(わたしは……、わたしの名は細波(さざなみ)。水神に捧げられた巫女)

 つぶやいたことばと同時に、それの記憶がわたしに流れ込んできた。
 長く祭られていた祠が、ハイウェイの拡張で撤去された。およそ二十年まえだ。ここに至るまでに通ったあの崖の上。湖を一望するあそこにあったあの祠。

 祠が失われて、それはさまよい出てきたようだ。
 神としての存在理由を失ったそれは、人に戻ることもできず、大きすぎる霊(すだま)となり、ここいらを徘徊していたのだろう。

 細波が、姿を取り戻す。
 顔を覆っていた手をそっとはずす。自分の手をじっと見ていたそれは、生きているかのようにほぅ、ひとつため息をついて、わたしへと視線を転じた。
 黒い伏し目がちの瞳とやわらかな丸みを帯びた頬の愛らしい顔立ちの娘だった。
 吐き気を催すようなあれが、女性だとは思っていなかったわたしはその姿を見てことばを失った。
 彼女のすがたは。
 上代のものだったから。
 そんなに長い間、この子は祠に封じられていたのか……。

(あなたは、誰? 不思議な人。桜の匂いがする……?)
「思い出したんだね? 細波」
 名を呼ぶと、うれしそうに彼女は微笑んだ。こっくりとうなずく。
(わたしは水神の妻として、この湖に捧げられた。水神の妻として祭られ、祠に封じられていたの。あなたは、わたしの祠をなおしてくれた人ね。ありがとう)
 しかし細波はすぐに悲しげな顔になった。
(わたし、行かなくては。約束があるの。でも、ここから離れられない)

 地縛、か。
 祠で祭られている間は、神としての勤めを果たしてきたのだろう。
 しかし祠が失われても、彼女は自由にはなれなかったのだ。長く神として祭られていたために、この土地との結びつきが強くなってしまった……

(きっと、待ってるのに)
 その目から、涙がこぼれ落ちる。
「細波、長い時が過ぎている。君を待ってる人も、もういない。還ろう」
(い……や)
「もう、いないんだ。千歳はとうに過ぎているんだよ」
(いや。だって、お別れも、言ってないの)
「細波、ここにいても仕方がないだろう? 望むなら、君を還してあげられる。この土地の呪縛から解いてあげられる。わたしは祝だけど、君のための最後の祭りを奉じることができる。祠を祭る人もいない今、君は自由になれるんだ」
(いや。行くの。わたし、行かなくちゃ。あの体。きれいな体、手に入れて。ここから離れるの)
「だめだよ、細波。彼の体は君の器じゃない。それに彼は鬼喰だ。君が近づけば、食われてしまう」
(大丈夫。彼の中はもういっぱい。もう食べられない。この湖にさまよう愚かな霊(すだま)をたくさんたくさん、与えたの。おもしろいほど、食べてくれた。おかげでここはすっかりきれいよ。崖の上の霊(すだま)たちも、その子狐とあなたが片付けてくれたのでしょう。わたしは自由。もう、守らなくてもいいんだもの。そうよ、あれは、わたしのものよ。わたしが食べるの。鬼喰の体なら、きっとわたしを受け入れても壊れたりしない。あの少女たちのように、壊れたりはしないわ。わたしは彼の魂魄を食べて、あの体を手に入れて、そして)
 あいにゆくの。あいにゆくの。あいにゆくの。
 あの人に、あの人に、あの人に……!!

 叩きつける風から目を守るためにわたしは手をかざした。その手に枝があることに気付いたのは、枝が風を退けてからだ。
「細波、やめなさい」
 枝を一振りすると風はぴたりとおさまった。葉からこぼれた夜露が、窓から差し込む月明かりに煌く。
(いや、邪魔をしないで。優しい人。わたしを取り戻してくれた人。わたしは、あなたを傷つけたくない)
「だめだ。細波。君は還らなければ」
(……退いてはくれないのね)
「うん。させるわけには、いかないから」
(ならば、退けるわ!!)
 そう叫び、彼女は両腕を頭上に挙げた。額に飾られた暗く、けれど鮮やかな青色の石がほのかに光り始める。 潜められていた力が再びわたしを圧倒する。
(千歳の間、水神と祭られてきたわたしはもはや唯人(ただびと)の霊ではない。退け、死にたくなくば)
 両手の間に氷の玉が現れる。瞬時に人の頭ほどになったそれを、わたしに投げつけた。
「細波、やめるんだ」
(そなたが退けば、やめよう)
「それはできない!!」
 桜の枝でそれらを次々と討ち祓いながら、しかし、わたしは徐々にことばを発することが出来なくなっていった。
 そんな余裕がないのだ。
 正面から。右から左から、上から下から、回り込んで背後から。 
 それでも細波は手加減しているのだ。わたしを殺してしまわないように。
 彼女の目的はわたしを殺すことではなく、志野の……いや、自分を受け入れるだけの強度を持つ、新しい体を手に入れることなのだから。
 わたしがあきらめるか、彼女を阻止できない程度に弱らせる。
 それだけでいい。
 しかし、だからと言って、わたしの状況に変化はない。
 細かな欠片まで避けることはできなかった。それらは甘んじてやり過ごし、致命傷になりそうな塊を砕くことだけに専念する。これがいっそ冬場だったなら、と思った。
 夏の薄着では、氷の破片をふせぐことはできない。
 シャツが裂け、あちこちに血が滲み始める。コテージに入ったときに、ジャケットを脱いでしまったことが悔やまれた。
 そして。
 次々に放たれる氷は、とうとうわたしの右肩を直撃する。腕がしびれて、わたしは桜の枝を落としてしまった。 砕けた氷がこめかみを傷つける。右目に流れこんだ血は視界を半分赤く染めた。
「っ」
 氷を避けながら、取り落とした枝を拾おうと身を屈めたそのとき。
 避けられない。
 わたしはわたしの頭が、氷に砕かれてぐしゃぐしゃになるところを想像し、息を飲み込んだ。目をきつく瞑る。
 そしてその瞬間を待った。

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