鬼喰
- たまはみ -

閑話 細波にゆらめく

第二章 二

(いやぁっ)
 叫び声は細波のものだった。
 一向に訪れる様子のない最後の瞬間を不思議に思いながら目を開ける。
 子稲荷さんが奮戦している。あれは狐火というものだろうか。
 鮮やかな金色の炎がいくつか舞い、細波の動きを封じている。その周囲を飛びながら、子稲荷さんは時折鋭く細波を威嚇する。
(やめて、やめて)
 火が苦手なのだろう。細波は自らの周囲に灯った炎を打ち消そうと力を振るう。だが子稲荷さんの力がより勝っているのか。徐々に狐火の数は増えてゆく。
 子稲荷さんが、細波の額飾りをむしりとった。
(ああぁっ)
 力の源を奪われた細波が、炎に包まれて膝を折る。
 ちいさくても、生来の神の力とはこういうものか、と。
 長く祭られていたにも関わらず、幼い子稲荷さんの前に屈した細波に憐れを覚えた。
 そのまま焼き尽くそうとすればできるのだろう。けれど、子稲荷さんはそれをせず、わたしを振り仰ぐ。
「うん。ありがとう」
 子稲荷さんに礼を言い、わたしは取り落とした枝を細波に向けた。
 動きを封じるために。
(いや、消えたくない)
 弱弱しく火を払いながら、彼女はわたしに懇願する。

 
 すだまは、美しい。
 
 そう思った。
 
 見得も、虚飾も、理性さえなく。
 ただ自らの思いのままに動く。
 それは生まれたばかりの赤子のように。
 無垢で美しく。
 はかなく、そして強い。

 消えたくない。
 もう一度、会いたいの。
 言わなくてはならないことがあるの。
 
 だから。
 
 お願い。
 まだ、わたしを消してしまわないで……!!
 無に、還してしまわないで。

 ぶつけられた思いは、氷よりも、痛かった。
 胸が苦しい。
 目がくらむほどの思い。
 引きずられそうになる。
 けれど。
 彼女の望みが叶うことはないのだ。
 約束は、果たされなかった。
 覆すことはできない。
 覆ることも、ない。

「子稲荷さん、彼女を還したい。力を貸してくれるかい」
 静かに、けれど視線は細波に据えたまま、小さな白狐に問いかけた。
 子稲荷さんが気遣うようにわたしと細波を交互に見た。
 こくっ、と子狐は頷く。
(いや、やめて。やめて……!!)
 そして、魂送りのことだまを口に乗せる。
 いや。乗せる直前。

「待たせたな」
 背後でゆっくりと立ち上がる気配。
「志野、気がついたのか。大丈夫か」
 視線だけは細波からはずすことなく、わたしはそう問いかけた。
「ああ。……ボロボロだな、あんた。田んぼの案山子のほうがまだマシだ」
「誰のせいでこうなったと思ってる!」
「そうだったな。……ここからは、俺がやる。あんたは下がってろ。まずいものを喰わせてくれた礼もしたい」
「志野!!」
 細波を喰わせたくはなかった。
 たった今まであれほど消耗していた志野に半ば神となった細波を喰えるとは思わなかったし、細波が志野の体を手に入れたところでその無念が晴れるはずもない。
 情が移ったのか、と問われれば、その通りだ。
 けれど、わたしの制止を完全に無視して、志野は細波に語りかける。冷たいほどに静かな声で。
「おい、さざなみ、とか言ったな」
 見えてはいないだろう。聞こえてもいないだろう。
 だが志野はわたしの姿勢と視線、そして声から、細波がどこにいてどのような状況かを、正しく掴んでいた。
「来いよ。喰ってやるよ、俺が」
「志野!」
「それで、おまえ、どこに行きたいんだ」
 志野は、問う。
 俺が連れて行ってやるよ。おまえの意志が強固なら、それくらいの時間、意識を保つこともたやすいだろう。その後、解放してはやれないが。
「それでもいいなら、できなくもない。来るか?」

 会いたい。……あのひとに。
 伝えたいことがあるの。
 あなたは、連れて行ってくれる?
 それなら、わたしは……。

 
 止める間もなかった。
 細波は、力を振り絞り狐火の囲みを破ると、手を差し伸べて誘う志野の元へと宙を舞う。

「いいのか? 来世は保証できないぞ」
 わたしの視線を追った志野が、細波のいる空間に目を向ける。
 鬼喰に喰われた「鬼」たちがどうなるのかわからない。
 志野が命を終えるとき、分離できるのか。それとも吸収されて消えてしまうのか。
 問いかけた志野に細波は微笑む。
 そして彼女は、わたしを振返り。

(ありがとう、優しい人)

 
「待つんだ、細波……!!」

 一瞬の後、彼女は志野に溶け込んだ。

 唐突に流れ込んできた細波の気に、志野がわずかに顔をしかめた。
 今の今まで身のうちに取り込んだ鬼の昇華に手一杯だった彼には、やはり苦しいのだろう。
 元が人とはいえ、一千年以上の時を神として祭られていた存在を受け入れるのは。
 志野はわずかに上体を屈め、両手で自分の体を抱いた。
「これは……さすがだな。これが神、か」
 震える声でつぶやいた彼は、わたしを見る。額には汗が滲んでいるのに、月に照らし出された顔は、ひどく青白い。がくがくと震える膝に、手を当てて、かろうじて立っている。
「まいったな」

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